コラム

民族から考えるウクライナ危機

民族から考えるウクライナ危機

北海道大学スラブ研究センター共同研究員 荒井幸康

ウクライナとロシアは「兄弟民族」と言われ、ロシアから見れば、ウクライナやベラルーシの人々が話している言葉は方言であると思われています。
 また、300年もの間、ウクライナはロシアに統合されていたため、ウクライナ人はロシア全土にいます。中でも、隣接したヴォルガ川下流域辺りに移民した人々は、ウクライナ語の言語的特徴を保ったままロシア人意識を持っていたりします。名字を見てもウクライナ人か、ロシア人か判断できないことが多くあります。

民族あるいはエスニックのアイデンティティというのは非常に難しいものです。
 というのも、民族やエスニックグループの意識は差異の中に生まれるもので、差異を強調する限りにおいて、Aとは違うBという民族あるいはエスニックグループ足りうるからです。差異のマーカーは多様なものがあります。宗教や人種、生活様式あるいは文化というものが思い浮かびますが、その中でも言語は特に、グループを形成するときに共通しているほうが集団を保持しやすいという意味で、非常に重要なマーカーになっています。
 なお、差異の強調といいましたが、それは自らが行うこともあれば、別の誰かに強いられて行われる場合もあります。

ウクライナに関しては差異の強調は自発的なもので、周辺の民族の中で歴史的な経緯からロシアとの差異をより強調していると考えられます。両者は同じ正教を信じる人々を中心としているので、差異のよりどころは文化であり、その中心となる言語だと考えられます。
 プーチンが昨年7月に論文まで書いて「ウクライナとロシアはひとつの民族だ」と主張し、今回のような軍事行動を起こした背景には、そのような差異をないものにしよういう考えが伺えます。
 ロシアとウクライナの間に決定的な差異を実体化させたソ連時代の民族政策は「誤りである」とプーチンは評価しています。「ウクライナ」は、もともと「辺境」という意味を持つ一般名詞でした。それがその後、民族として、そして独立後は国家としてその実体を持ちます。
 逆に、多文化社会の視点に立つと、ソ連時代の初期の民族政策は肯定的な評価ができるものかもしれません。ウクライナや他の少数民族に領域を持たせ、政策を担える実体として民族幹部を成立させるため、圧倒的に優位であったロシアとの民族間の格差を積極的に是正する政策をとりました。
 以下では現在のウクライナとロシアの民族関係が形成されるに至った経緯について考察していこうと思います。

ウクライナ語はウクライナに住む人々にどれほど重要だったのでしょうか?
 19世紀から20世紀、ロシア語の多くの文学作品が生まれましたが、その中にはウクライナ出身の作家によるものもあります。ゴーゴリ(1809-1852)やM.ブルガーコフ(1891-1940)といった著名な作家もウクライナ出身であり、現在に至ってもウクライナにいながらロシア語で作品を書く作家もいます。読者人口が1億を超える言語で書くことはやはり魅力なのです。
 一方、ウクライナ語の文学作品については、18世紀の終わりにはI.コトリャレーウシキー(1769-1838)、19世紀にはウクライナ最大の詩人と称されるタラス・シェフチェンコ(1814-1861)などの作家が現れました。しかし、ウクライナ語は「いなかのことば」とみなされており、文章語としてはまだ機能しているとはいえない状況でした。 
 ウクライナ語が社会的機能を拡大していくのはロシア革命以後のことです。

10月革命(1917年)による権力奪取の際、ソ連政府は「民族自決権」というスローガンを唱えました。とはいえ、それらの民族の支持を取り付ける必要があったために採用されただけで、実際にはなんのモデルも提示してはいませんでした。多くの民族のナショナリズム運動に直面する中で、最終的に「民族自決権」の維持を決め、実効性を持たせる方策を必死に模索し、最終的に、領域的自治を与える方法が選択されたのです。
 1923年、党大会および民族政策に関する党中央委員会の特別協議会で、民族の4つの形式-民族領土、民族語、民族エリート、民族文化-が確認されていきます。

一方でウクライナでは独自の民族運動が展開されており、ウクライナ人民共和国(1917-1920)の建国が宣言されますが、結局は短期間で潰されてしまいます。
 ウクライナを再び手中にしたソ連政府は、ウクライナ全土でウクライナ語の優遇政策を行い、ナショナリズムの高鳴りを鎮めようとします。
 これはその後、ソ連のさまざまなところで展開されることになる「土着化」と呼ばれる政策の端緒となります。政策が基調としているのは、先ほど述べた民族の4つの形式-民族領土、民族語、民族エリート、民族文化-です。その一環としてウクライナ語をその領域において使えるようにするという目標が立てられました。
 この政策には、この地に留まるロシア人からも、都市に住みロシア語が話せるウクライナ人からも疑問の声が上がります。曰く、農村から都市に来ればウクライナ人はロシア語で話すようになる、このような政策が逆に統合の支障とはならないかと。
 他の民族地域でも同じような疑問を呈する意見が多く上がってきました。しかし、土着化政策は断行されます。ロシアは他の民族の文化や言語を抑圧してきたのだから是正すべきで、民族語を積極的に使用させることで、過去のツァーリ政府の行いの償いをする、それが政策の中核にある考え方でした。これが4つの民族形式の中で民族語が取り上げられる意味です。ウクライナでは、そのモデルケースとして、学校や職場などでも積極的に「ウクライナ語化」政策が行われていきました。

ただ、この政策もあるところで限界を迎えます。ウクライナと領域外の中央政府とをつなぐ連邦機関においての言語使用の問題でした。結局は、1928年頃に連邦機関での作業言語はロシア語のみとなり、ウクライナ語を推進する政策は後退します。
 その後、ロシア語の使用は一層進み、ウクライナ語話者はロシア語とのバイリンガルになっていきました。一方、ウクライナ語は民族の象徴としてその地位を保ち続け、「いなかのことば」というイメージも払拭されていきました。

民族エリートの登用はその後も続き、その民族領域で政策を担う人材が、ウクライナだけでなく、他の民族の自治領域でも育っていきました。政策運営に使った言語は必ずしも民族語ではないのですが、彼らはソ連が崩壊した後、それぞれの国家を担うエリート層になっていきます。

1991年にソ連が崩壊し、ウクライナは独立した国家となりました。
 独立後は、ウクライナでは国家語であるウクライナ語の育成を再び始めます。
 ただ、別々の国になって以降も交流は続きます。ウクライナの歌手がロシアでコンサートを開くこともありましたし、ロシアのテレビが開催する素人がチーム対抗で競うお笑い番組がウクライナで開催されるということもありました。
 しかし、2014年にウクライナでマイダン革命あるいはウクライナ騒乱が起き、ロシアが軍事介入してから後は、かなり関係が冷えたものになり、交流も行われなくなっています。

こうして今年2月24日、戦争が起こってしまいました。
 2014年以降、ウクライナでは民族意識というよりはロシア語話者を含めた国民意識が高まり頑強な抵抗が続いています。
 「敵」という意識は、人々のロシア語への意識も変えつつあり、日常的に話す言葉をロシア語からウクライナ語に切り替えるという動きが戦争直後から多く出始めました。SNSでも次々とそのような人々が現れてきている様子がうかがえます。

プーチンが起こしたこの戦争は、彼の期待した「民族の再統合」という目論見とは真逆の、ウクライナの人々をさらにロシアから距離を置く方向へ追いやることになってしまったように思います。
 このような中、平和だったら来るはずもない人たちが避難民としてヨーロッパ諸国や日本に来ることになってしまいました。
 今回はウクライナをめぐる民族関係をロシアとウクライナの関係を中心にお話ししました。戦争が起こり、避難民が生まれた背景の一端を説明したつもりです。
 今は早く平和が戻ってくることを祈りたいと思います。


 
参考
テリー・マーチン 『アファーマティヴ・アクションの帝国 ――ソ連の民族とナショナリズム、1923年~1939年』 明石書店 2011


著者プロフィール
荒井幸康
1994年大阪外国語大学外国語学部モンゴル語科卒業、2004年一橋大学大学院言語社会研究科博士後期課程修了。博士(学術)。1995~1997年国立イルクーツク外国語教育大学講師(ロシア連邦)、2004年~2005年モンゴル発展調査センター客員研究員(モンゴル国) を経て、現在、北海道大学スラブ研究センター共同研究員。専門は社会言語学(言語政策)、モンゴル学(20世紀以降の知識人層の形成史及び社会史)。著書に『「言語」の統合と分離 1920-1940年代のモンゴル・ブリヤート・カルムイクの言語政策の相関関係を中心に』三元社(2006年)、『聖書とモンゴル 翻訳文化論の新たな地平へ』(共著)教文館(2021年)等。

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