多文化共生関係資料
東日本大震災支援活動記録
在住外国人による支援活動
■ズベール・サヒ
<インタビューイー紹介> ズベール・サヒさん パキスタン出身。1988年に来日。 富山県在住。中古車取扱業に従事。 日頃より同国者をサポートする活動や外国人住民と地域をつなぐ活動をし、 現在は被災地支援に関する講演もしている。
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東日本大震災ではどんな活動をしましたか?
避難所で炊き出しのカレーを作る |
3月12日、36人乗りの大型バスを借り、大量の水、米、カレー、ガスボンベ、ガソリンなどの必要な物資を買い揃え、急いで同じ富山県在住のパキスタン出身の仲間7人と一緒に被災地へと向かいました。高速道路が封鎖されていたので、十何時間もひたすら一般道を走り続け、なんとか翌日早朝の4時頃に仙台市役所に辿り着きました。市役所や避難所を回ってみると、まだ他の支援団体の姿はほとんど見かけず、僕たちは一番早く現場に着いたようでした。
最も支援が必要な場所は港に近い避難所だと聞き、すぐにそこへ向かいました。3月11日以来、避難所にいる被災者はまだ一度も食事をしていないと聞き、僕たちは移動の疲れを忘れてすぐにカレー作りをはじめました。約1,200人分のカレーをほとんど一人で作り、被災者一人ひとりに気持ちを込めて配膳しました。活動の途中で震度7の余震があり、津波警報も出されました。正直、僕も怖かったのですが、お腹を空かせている皆さんを見るとなぜか勇気がわいてきて、カレー作りに没頭していました。
1,200人分のカレーは、すぐになくなりました。まず一番大事な食べ物を被災地に届けないといけないと思ったので、日本全国にいるパキスタン出身の仲間たちと200万円以上の資金を出し合い、その後も気仙沼市や亘理町の避難所に赴き、何千人分ものカレーといろいろな日常用品を被災者に届けました。
どんな思いで活動をしましたか? また、活動の際に難しいと感じた点、助けになったことは?
実は今回の活動は初めてではありません。阪神淡路大震災の時に初めて被災地に行き、自分の目で震災を確かめ、必要な支援について考えました。そこでの学びが役に立ち、その後の新潟県中越地震(2004)や新潟県中越沖地震(2007)では素早く炊き出しを届けるなど、ボランティア活動ができたと思います。パキスタン出身の僕ですが、長い日本での生活で地域の水を飲み、地域の米を食べ、そして地域の人々と接している間に、富山への愛着がどんどん強くなっています。日本に来てから、たくさんの外国人住民や日本人の方に助けていただき、感謝しています。僕の言葉で言わせてもらうと「いいことをすれば、いい輪が広がる」ので、僕もいいことをしようと思う、それだけのことなのです。
震災以降、「今、助けを必要としている日本に、自分にできることは何か」と思い悩みました。悩むよりは行動しようと思いました。僕の活動は決して特別なことではなく、日本に住む一員として当然の役割を果たし、自分の家族や兄弟のためにカレーを作るような気持ちで活動していました。
支援活動を通じて感じたこと、気づいたことを教えてください。
震災発生から2日間何も食べていなかった皆さんは僕が作ったカレーを口にしたときの笑顔を今でも鮮明に覚えています。そのホッとした笑顔を見るとなぜか元気がわいてきて、疲れていた体が不思議と軽くなったように感じました。その時僕は「イスラム教徒として、アッラー神にいいご報告ができる」と思いました。心の奥からわきあがってきた喜びは、言葉にできないほどでした。活動を通じて、自分が困っている時でも人助けを忘れない日本人の素晴らしさを強く感じました。日本人は思いやりの心を持っている素晴らしい人々だと僕は改めて感じました。そしてもう一つ感じたことは、現場の状況を把握した上で、多くの日本人の団体と十分にコミュニケーションを取りながら協力し合うことがとても大事だということです。
今後はどんな活動を予定されていますか?
息子たちの健やかな成長を願う |
最近は講演する機会にも恵まれています。僕の日本語は決して流暢ではありませんが、講演活動を通して、一人でも多く社会活動がしたいと思う人が増えればと考えています。
最後にこのサイトを見ている人にメッセージをお願いします。
日本に住む外国人住民の皆さんも、日本社会の一員としてもっと地域に関心を持ち、そして地域のために行動に出ましょう。悩むよりは、今できることから少しずつやっていきましょう。
<連絡先> 名前:ズベール・サヒ |